古代インドの ※ ヴェーダ聖典のなかに ‘ アーラニヤカ ’ という文献があります。
一般的には「森林書」とされていますが、偉大なる聖者マハリシ・マヘーシュ・ヨーギによると、アーラニヤカという言葉には、「撹拌(かくはん)・かき混ぜること」という意味があるそうです。
この記事は ‘ 真面目な子供(正直者・弱者)を被害者 ’ と位置付け、一つの見解を提示するとともに、敢えて、皆様の意識をかき混ぜ、揺り動かすことにより、「真の調和を創る 波 を起こせたら」との想いを以て書かれたものです。
是非、最後までご高覧ください。
私たちが社会生活を営んでいるこの世界を、※ 相対界と呼びます。
相対界には、相反するものが常に対を為し、存在しています。
光と影、善と悪、プラスとマイナス等... 当然、正直者もいれば、それに相反する者もいます。
大勝ちする者がいるなら、必然的に大負けする者がいる...
‘ 相反する質が対で±0となる図式 ’ により、この世界のバランスは保たれているのです。
ヒマラヤハウス® には、子供たちに関する様々な話題が寄せられます。
その中でも非常に多い話題の一つ、
‘ 正直者(真面目)であるが故に、損をしてしまう子供たち ’ について、掃除の時間を例に、
「一集団において 真面目に掃除をする子供と一切しない子供たちの図式」
を探求しました。
子供の世界は、大人の世界の縮図であり、大人の世界よりシンプルであるが故に、様々な事象の本質に気付かされることが多々あります。
例えば、掃除において、場を整えるために10の仕事があり、10人の子供がいるとします。
最も良い方法、正しいバランスの状態は、基本的に子供全員がそれぞれ1ずつ仕事を担当することです(10人×1仕事=10仕事)。
しかし、現在、真面目な子供が一人で10の仕事全てを背負う、 ‘ 誤ったバランス ’ の状態が少なからず存在しています(1人×10仕事=10仕事)。
表面的に結果は同じとなりますが、この誤ったバランスの状態こそ、真面目な子供を苦しめている ‘ 負の図式 ’ なのです。
この図式より、私たちは ‘ 公共性の欠如 ’ という現代社会の本質的な問題を捉えることができます。
※ 公共性とは、※ 自然の摂理に沿って、自らの存在とともに、周囲のあらゆる存在を活かす性質であり、それは、「純粋に他者を想い、共に生きようとする心(精神性)」であるとも言えます。
※ 公共性についての記事「公共性と環境づくり-ヒマラヤハウス」を是非ご高覧ください。
現時点において、※ 私たちの生きる相対界では、自然の摂理に対する認識が低く、まだまだ粗雑で純粋性に乏しいがゆえに ‘ 誤ったバランスの状態=公共性の欠如した状態 ’ が生ずるのです。
これより、皆様より寄せられた体験談に基づき記します。
子供たち7~8人のグループがあります。
一人の子供のみ基本的なルールを遵守し、真面目に掃除をします。残りの子供たちは、ルール(義務)を放棄し、掃除をする一人の子供よりの注意、要請を無視し、あるいは馬鹿にし、一切掃除をしません。
パターンとして、真面目に掃除をする子供は、生徒会(児童会)役員、学級委員(HR委員)、班長、そして、真面目ですが心や立場が弱い子供... と相場が決まっています。
基本的に責任感が強く 一人で背負い込み 背負い込まされます
ここで考えました。
なぜ、いつも、一人の子供のみ掃除をさせられるのだろう? ...と。
それは、真面目な一人の子供が最後まで熱心に掃除をすることにより、常に場が綺麗に保たれるからです。
寄せられた多くの事例から察するに、一般的な教育者の目は、多数の子供たちが掃除を怠けているという「途中経過」を目の当たりにし叱責することよりも、最終的に、掃除が為され場が整っているという「結果」を、より強く捉えてしまう傾向にあるようです。
表面的に帳尻は合っていますし、大事にならないと認識するのは当然のことかもしれませんが...
ここで、敢えて起こそうとする一つの 波 とは、
‘ 一人の真面目な子供も 掃除をしなければ良い ’ というものです。
(ただし、義務教育であっても、私立・国立等の学校の場合は、このような主張や行動が、学校の規律に触れることにより、停学・退学処分を受けないことが前提です。義務教育を終了している高等学校等の場合も同様です。
また、どのような言動においても、常に責任は付き物、という認識も必要となります。
もっとも、真面目な子供への処分以前に、いつも掃除をしていない子供たちへの処分があって然るべきでしょう。)
ここでの 波 とは、全体を変える原動力となる ‘ ゆらぎ ’ です。
一度、誤ったバランス(一人のみで背負うこと)で成り立っている負の図式を壊し、本来在るべき正しい図式(皆で等しく掃除をすること)を創るため、 ‘ ゆらぎ ’ を起こす必要があるのです。
誰も掃除をせず、汚れた場が目に止まれば、当然、全員叱られますし、誰も掃除をしなければ、仕方なく全員で義務を果たさせられるのではないでしょうか?
また、なぜ場が汚いのか? なぜ今まで綺麗だったのか? 原因を追求せざるを得ません。
ひとつの純粋な ‘ ゆらぎ ’ は、眠っている環境と意識を揺り動かしながら、波となり、伝播してゆくことでしょう。
しかし重要なのは、ここにおいてこそ ‘ 正直者は損をする ’ という図式が顕著となることです。
なぜなら、一般的に、子供たちの中のリーダーである真面目な子供(正直者)は、当然その責任と資質を問われ、一番叱られるからです。
また、一人で掃除をし、ほかの子供たちが怠けたことを報告した場合においても、一人でも義務を遂行した実直さや再三注意をした努力はさておかれ、リーダーとしての資質の無さを指摘されるので、同じく損をします。
さらに、報告は、秩序に沿い共に活きるための純粋な行為であるにもかかわらず、「チクった(密告した)」として、いじめの対象となることさえあります。
ただ一人、真面目に掃除をさせられ、純粋に事実を報告しても、指摘を受ける... いじめの対象ともなる...
皆と同様に掃除をしなければ、リーダーとして、より多くの責任を追求される...
まさに踏んだり蹴ったり 正直者は逃げ道のない状況で生きているのです
人は、往々にして錯覚に陥るものです。
例えば...
常に優秀で、テストで100点を取ることが当たり前の子供が、85点を取ると叱られます。
ところが、いつも40点の子供が60点を取ると評価されます。
いつもと異なる(予想を覆す)結果は、強いインパクトを与えるからです。
掃除も同様です。
常に真面目に掃除をする子供が、一度でも怠ければ叱られます。
ところが、毎回怠ける子供が、一度でも掃除をすれば評価されます。
普段と違う行動は、目立つからです。
(この評価は、怠ける子供に対するアメとムチとは、いささか性質の異なるものです)
本当に評価されるべきは、どちらでしょうか?
このように、人の「目の慣れ」とは、いかにいい加減で怖いものか解ります。
ここにおいても、真面目な子供は ‘ 貧乏くじ ’ を引く役回りを余儀無くされるのです。
真面目な子供・弱者ほど、周囲の目の慣れ(錯覚を含む)に敏感で、自分の行いが表面的に判断され、損をすることが解っています。
実際、真面目な子供の親が、「掃除の放棄」を提言すると、殆どの子供が決まって「自分が一番叱られるから出来ない」と言います。
そして、同じグループの掃除をしない子供たちは、それをも解っており、真面目な子供一人に掃除を押しつけ調子づくであろう、と強く推測できます。
教育者も、場が綺麗に保たれていることを良しとし、過程を追求することをせず、結果として ‘ 押し付け ’ を黙認していないでしょうか?
‘ 事なかれ主義 ’ に真面目な子供を付き合わせていないでしょうか?
真面目に掃除をする子供は、これらのこと全てを、現場で一番理解しているのです。
その結果、真面目であればあるほど、徹底的に背負い込み、背負い込まされ、大損をし続けます。
極限までストレスを溜め込みます。
溜め込んだストレスは、20年、30年経っても記憶に残り、真面目な子供の心身を苦しめ続けるのではないでしょうか?
掃除をする子供の特徴として、 ‘ 自己犠牲が強い ’ 傾向にあると思います。
基本的に、今の子供たちの世界で ‘ 自己犠牲 ’ が評価されるでしょうか?
寄せられた多くの事例から察する限り、利用(悪用)されるだけに思えてなりません。
悪用され 更なる犠牲を強いられる
ここにも負の連鎖が顕著に表れていると思います。
これらの理不尽な負の連鎖より、「真面目な子供が受けるストレスがいかに莫大なものか」
まともな大人なら容易に想像することができます。
『 真面目な子供にも 平等に ‘ 純粋に日々活き活きと楽しく過ごす ’ 権利があります 』
不真面目な子供ほど 他者を犠牲にし 活き活き楽しんでいる ように感じられます
子供の指導者たる教育者、掃除をしない子供たちの親は、この負の図式を理解し、もっと真剣に取り組むべきでしょう。
掃除をしない子供たちは、中心となる子供、それに自ら進んで迎合する子供、場合によっては圧力により強制的に迎合させられる子供、に分かれるようです。
もちろん、不真面目な子供たちは、自らの行動に悪意があるなどとは思っていないでしょう。
しかし、悪意がないという前提であったとしても、事なかれ主義に落ち入ることなく事実を明らかにし、HRや保護者会等の教育の場、家庭においても徹底的に話し合いを持ち、純粋に子供たちを想い導いていくべきと思います。
そして、真面目に掃除をする子供の親こそ、これを理解し、子供がストレスを抱える環境と真剣に向き合い、対処すべきです。
「優秀な子供」という言葉で気を紛らわせたり、一番大切なことを見過ごしたりしていませんか?
たとえ、親が周囲より「優秀なお子さんですね」と、もてはやされたとしても、一番に目を向けるべきは ‘ 子供が活き活きしているか ’ ということであり、そのための ‘ 良い環境(場)が整っているか ’ ということです。
教育現場に対し、正当性を主張し、子供の基本的権利を守ることは至極当然のことであり、自己中心的思考より騒ぎを起こす「※ モンスターペアレンツ」とは異なります。
「モンスターペアレンツ」という言葉の罠に、決してはまらないでください。
敢えて付け加えるなら、対処には戦闘能力の高さが求められます。
純粋に子供を想うことにより生まれる ‘ 強さ ’ そして、正しき道を信じ貫く ‘ 誇り ’ が、きっと戦闘能力を支えてくれることでしょう。
どうか、親こそ 勘違いをせず泣き寝入りをせず、純粋に子供を想い対処してください
理不尽な負の連鎖を断ち切るため、真面目に掃除をする子供に求められるのは ‘ 強さ ’ です。
現在、ヒマラヤハウスでは、この ‘ 強さ ’ を ‘ ※ 環境戦闘値 ’ と言い表しています。
親に求められる ‘ 強さ ’ もまた、同様です。
残念ながら、現時点において、真面目な子供が自ら熱心に掃除をすることにより、ほかの子供たちも心動かされ、一緒に掃除をする、という例はないようです。
ならば、敢えて、周囲に「自分も掃除をしない」と提言し、徹底して大人(教育者など)をも巻き込み、確固たる ‘ 強さ ’ を持って、その正当性を主張すれば良いのです。
それは、本来在るべき正しい秩序に沿い、共に生きる(活きる)環境 ― 公共性 ― を復活させるための純粋な主張なのですから。
優秀な教育者であれば、きっと理解してくれることでしょう。
また、経験値の少ない教育者は、これより学び、経験値を上げれば良いと思います。
様々な波(純粋なゆらぎ)より、多くの本質を学ぶことができるはずです。
ヒマラヤハウスに寄せられた多くの事例は、一人の子供が多大なストレスを抱えることと引き替えに、表面的な調和が保たれている現状を物語っています。
しかし、いかに全体の調和があろうとも、それが表面のみであることに、そして、一人の子供だけが、あるいは一定の割合の真面目な子供たちだけが、多大なストレスを抱え苦しみ続けることに、果たして意味などあるのでしょうか?
日本人の一部は「まことの調和」と「見せかけの調和」を勘違いしているきらいがあります。
「まことの調和」とは、全てが本来在るべき正しい秩序により統一されている世界 ― コスモス ― にのみ成り立ちます。そこには、不条理がなく、損をする者(理不尽な犠牲者)もいません。
本来在るべき正しい秩序に沿う時、全ての存在は ‘ 公共性 ’ とともに在り、互いに活かし活かされ、支え合い、満たされるからです。
一方、秩序なき混沌とした世界 ― カオス ― の上にあるものは、「見せかけの調和」でしかありません。
無秩序は、あらゆる側面で ‘ 誤ったバランス ’ ‘ 負の図式 ’ の連鎖を呼び、 ‘ 損をする者(理不尽な犠牲者)’ を生むからです。理不尽な犠牲の上に成り立つものが、まことの調和である筈はありません。
‘ 事なかれ主義 ’ は、無秩序という本質的な問題に蓋をし、馴れ合いや妥協で折り合いをつけることにより、表面的な調和を装います。
しかし、表面的な調和の影には、必ず泣く者がいるのです。
『 私たちは 変えなくてはなりません 』
「見せかけの調和」を壊すため、敢えて 波 を起こす必要があります。
そして、今こそ ‘ 戦う意思と覚悟 ’ を持って 共に「まことの調和」を創るべきなのです。
これは、理不尽な負の図式に散々苦しめられてきた何人もの子供たち、親達の悲痛な想いに対し、ヒマラヤハウスが敢えて行う、ひとつの提言です。
容易なことではないでしょう。
しかし、正しき道を貫き通す ‘ 誇り ’ こそが「まことの調和を創る力」となると強く想います。
『 正直者は 損をすべきではありません 』
正直者(正しい者、純粋な者)は、自らが活き活き過ごし、喜びと満足を得ることにより、そのエネルギーを周囲に放射し(分け与え)‘ 公共性 ’ を創造してゆくことができるからです。
公共性により、全ての存在は活かされ、環境全体は「まことの調和」に満たされるのです。
純粋な創造の力は、理不尽なストレスにより潰されてはなりません。
親、教育者、子供、それぞれに責任はありますが、親と教育者の責任は特に重大です。
ヒマラヤハウス® では『 空間ヒーリング® 』により、日常生活の多様なケースにおいて ‘ 正直者(純粋な者)が損をしない環境づくり ’ をご提案することができます。
空間ヒーリングは、ヴェーダの叡智より ‘ 公共性 ’ の創造を目的とし開発されたサイエンスであるからです。
空間ヒーリングがめざす ― 環境と意識の純粋な活性化 ― は、「まことの調和」の創造を力強くサポートすることでしょう。
ヒマラヤハウスでは、 ‘ 空間ヒーリングArt ’ を活用した環境づくり を皆様にご提案しております。
まさに、この記事を書いている時、コンサルティングアート “ 逆転 ” が誕生しました。
様々な「不条理」「負の連鎖」より脱却し、皆様に幸福な人生を歩んでいただきたい、というアーティストの想いを具現化したArt です。
現在では、 “ 逆転 ” を超えたテーマ “ 大逆転 ” をめざしたArt へヴァージョンアップし、多くの皆様よりご好評をいただいております。(※ “ 逆転 ” の販売は終了いたしました。)
ご興味のある方は、クリックして、ご提案文書をご覧下さい。
ご提案 “ Ω® 2-6 BABAJIART® 整治® ” 創造テーマ:大逆転 PDF
また、コンサルティングアート “ Azuke Morai(預け、貰い)” は、「理不尽な背負い込み・背負い込まされを防ぐこと」をテーマに持つ人気のArt です。
様々な否定性(負の図式)を預からず、貰わず、皆様が日々活き活きと過ごせることを願い、創造されました。
ご提案文書とともに、「預け、貰い」をテーマとした記事も是非ご高覧ください。
ご提案 “ Ω® 3-3 H.Dhanur® AM-3.7 ” 創造テーマ:預からず PDF
ほかにも ‘ 環境戦闘値の向上 ’ など 様々なテーマを持つコンサルティングアートを多数ご用意しております。
お部屋に飾る、携帯するだけの ‘ 簡単インド風水アート ’ です。
ご興味のある方は、どうぞお気軽に、下記 お問合せ よりご連絡ください。
この記事は、ヒマラヤハウスが理解し得た範囲の学校について、その様々な事例に基づき書かれたものです。
私立の学校、また、インターナショナルスクール等については、データ不足のため、本記事の内容には当てはまらないかもしれません。
また、掃除の例とは異なりますが、ヒマラヤハウスには、 ‘ いじめ ’ を根絶しようと、ひたすら子供たちの将来を考え、子供たちの未来と真剣に向き合ってくださっている教育現場・学校、そして教育者の方々がいらっしゃるという事例もあります。
私たちヒマラヤハウスよりも最大の感謝を申し上げるとともに、このような教育現場・学校、教育者の方々の熱意が大きな波となり、「まことの調和」を創る力となって各方面に伝わってゆくことを、そして幸福に満ちた豊かな環境が拡がってゆくことを願ってやみません。