未完の時期(とき) ― 未来を気にかけて ―

美しいオーラをつくるヴァーストゥの知識
はじめに ― 時代背景と環境

自分が育った時代(環境)と、時代背景の異なる環境とのギャップに戸惑うことはありませんか。

「ずる賢いサルに騙(だま)されて死んでしまうカニ」「ウサギに泥舟に乗せられ、川に沈むタヌキ」など、悪であるサルとタヌキが死に至る物語は、既に過去(昭和の頃)の昔話になりつつあります。

近年、「順位をつけない徒競走」が話題となったことを知りました。

今や、「草食系」と呼ばれる、若い世代の意識と行動を常態とするような風潮さえあります。

人々の意識はそれらを取り巻く環境により、変化しているように思います。
そして、人々を取り巻く環境が変化する理由のひとつに、時代背景があります。

実際に、「時代背景によって環境がどのように変化し、それによって、意識がどのように変わってきているのか」について、いくつか事例をあげて見ていきたいと思います。


環境と意識

事例1 昔話の改変

ほとんどの方は日本昔話の「さるかに合戦」や「かちかち山」をご存じのことと思います。
昔話や童話のなかには、ときに残酷な描写を交えることで効果的に秩序、倫理、道義を伝えようとする作品が数多くあります。
近年になって、時代の基準において残酷とされる表現を削ぎ落とし、あるいは改変した教育や出版がなされるようになりました。

「 さるかに合戦 」(改変前)
ずる賢いサルに騙され、青柿を投げつけられたカニは死んでしまいます。
カニの子は仲間と親の敵(かたき)を討ちます。
悪いサルは栗に体当たりされ火傷し、蜂に刺され、牛糞に滑り、臼に潰されます。

(改変された点)
・題名は「さるかに合戦」から「さるかにばなし」に
・親のカニが死なずに怪我をする程度
・サルも死なない
・サルは反省して謝り、みんなと仲良く平和に暮らす

「 かちかち山 」(改変前)
お爺さんはいたずらタヌキを捕まえて、お婆さんにタヌキ汁をつくるよう頼みます。
ところが、タヌキはお婆さんを騙して、杵(きね)で殺し、婆汁をつくり、お爺さんに食べさせます。
悲しむお爺さんにウサギが味方をして悪いタヌキを裁き、お婆さんの敵討ちを果たします。
ウサギはタヌキに背負わせた薪に火をつけて大火傷を負わせ、その治療と称して唐辛子を塗り、タヌキを泥舟に乗せて川に沈めてしまいます。

(改変された点)
・お婆さんは殺されずに一時的に寝たきりとなる
・ウサギはタヌキの命までは取らずに許す
・ウサギに懲(こ)らしめられたタヌキはいたずらをしなくなる、または、改心して謝る
・改心したタヌキとウサギとお婆さんがお茶を飲んで和んで終わる

原典は、悪であるサルとタヌキは最終的に死に到る物語ですが、道徳的、教育的な観点より平和の構築の重要さを教義とし、改変されたようです。
子供心に強烈な印象を与えたからこそ、善悪の判断や因果応報(カルマの法則)など 自然の摂理から顕われる純粋な戒めを学べたとも考えらます。
近年は、純粋な戒めが見直され、原典を尊重し、改変前の内容に戻す動きもでています。


事例2 順位づけしない徒競走

徒競走とは「一定距離を走ってその速さを競う運動競技」です。
運動会ではメインの競技となる徒競走ですが、近年、一部の小学校では順番づけは差別になる、友人と競うことを避ける等の理由から順位づけをしない、もはや競争させない方針に移行しようとした動きがあったようです。

運動会の真剣勝負に、声を限りに応援した思い出がある方も多いと思います。
果たして、競争しない運動会は盛り上がるのでしょうか。

一方、スポーツで極限の戦いを繰り広げるオリンピックに、人々は感動し情熱を傾けます。
金メダルをめざしての全力勝負は、皆さんの目に美しく映るのではないでしょうか。
果たして、競争しないことが平等で善いことでしょうか?
全力勝負によって、生まれるもの、学べるものがあるはずです。


事例3 草食系の成り立ち

バブル景気(1980年代後半から1990年代初頭にかけて続いた、株式や地価が急激に高騰した景気拡張期間)以前とバブル崩壊後では経済的な環境はがらりと変化しました。
バブル経済では、あらゆる方面で消費が盛んになりましたが、バブル崩壊後、経済は急激に後退し、消費マインドは冷え込みました。

いわゆる草食系と称される世代は、バブル崩壊後の長期不況期に少年時代を過ごしたため、先行き不安な閉塞感のなかでお金を使えなくなり、あらゆることに意欲をなくし行動力がなくなった、という分析がなされています。

草食系の特徴として、恋愛に対して受動的で、物欲や出世欲も薄い、温厚であらゆることに対して淡泊。
消費活動では見栄より心地よさや好みを優先、自分や相手が傷つくことには敏感で、あつれきや競争は避け、異なる考え方や生き方には干渉しない、といった傾向があると解説されています。

時代の経済的背景が理由にあるとしても、心身の脆弱(ぜいじゃく)化を思わせるような変化は、決して歓迎すべき傾向ではないでしょう。


事例4 東京大学という価値観

子供の教育において、競争させない平等を掲げる価値観の一方で、最高の学力を要する東京大学を尊重するという価値観は依然として健在です。
そこで描かれている未来は、草食系の性質とは全く対照的に、世界で生き抜ける期待を託されています。
東京大学総長が入学式の祝辞において、どこでも強くたくましく生きられるよう成長して欲しいことを述べています。

「世界的規模で自然環境や政治経済の不透明さが増すなかで、求められるのはタフさ(強さ)であり、グローバル化が進んでいる世界に通用する競争能力の一翼となる。
タフさの本質は、多くの困難にも臆せずに向き合い、力の限りを尽くし乗り越える姿勢であり、タフさを育てるのは、多様な環境である。
様々な異質なものにさらされ、戸惑い悩むなかで経験を積みながら、柔軟な知恵や工夫を取り込むことによって、差異を越えて、時代や環境の新しい変化に対応できる力(タフさ)を培うことができる。」
と説明しています。


環境を客観視する

時代背景が環境を創り、環境が私たちの考え方、ひいては思想や価値観に働きかけ、意識や精神性を形成するといえます。
端的には「環境が人を育み、環境が人を創る」といえるでしょう。

時代背景(環境)により、意識の変化が促されていることに気づき、今の環境に迎合していてよいのか、まずは客観的にご自身の環境と意識を広く深く見つめてみてください。


例えば‥
[ 事例1 昔話の改変 ]では、改変前には描かれていた重要な「自然の摂理」が失われています。
全ての行動には 責任が付き纏(まと)います。
自然の法則はシビア(規律または判断において容赦なく妥協しない、当たり前)です。
カルマの法則に手加減はなく、罪を犯したら償うことが必然です。
誤りに対して改心は必要ですが、改心したからといって償いなくして罪が許されることはありません。


[ 事例2 順位づけしない徒競走 ]では、見せかけの調和を持ち出され、私たちが純粋に生きるために必要な ‘ 戦う意思 ’ を削がれてはいないでしょうか。

事例1と2より、今の時代の環境に「事なかれ主義」が蔓延していることが伺われます。
事なかれ主義は、無秩序という誤りから目をそらし、見せかけの調和を装い、責任をとらずに馴れ合いや妥協で折り合いをつけることです。
見せかけの調和は、正されずに見過ごされる無秩序を纏い、正しい秩序の下(もと)で生まれる真の調和力はありません。


[ 事例3 草食系の成り立ち ]での、若い世代の意識と行動の変化は、経済の後退による抗(あらが)うことのできない影響なのでしょうか。

否、同じ時代であっても、[ 事例4 東京大学という価値観 ]は脈々と受け継がれており、自らの意思と覚悟をもって、 ‘ 戦う強さ ’ を貫くことが可能なのではないでしょうか。

最近の集団的自衛権についての議論(2014年6月頃)には、事なかれ主義に対して道理を正して戦う強さの選択が、端的に顕れていると解されます。


ご自身と全ての環境が活き活きと本来の役割を全うできるのは、どのような生き方なのか? どうか真剣に想い描いてみてください。


純粋な創造

誰もがそれぞれの環境における、 ‘ 正義 ’ を掲げ、戦っているのかもしれません。
しかし、そこに ‘ 純粋性 ’ がないと、真の調和の創造は成されないでしょう。
純粋性 は強さとなります。純粋性 を損(そこ)なっているのは、人々の弱い意識(無知)なのです。

世界を構成する最小単位の集合体は家族です。
親が子に対して、事なかれ主義(他との摩擦を避け、とにかく平穏無事に過ごそうとする消極的な態度)を押し付けることは、社会に無秩序が拡散する元凶となり得ます。

自然の法則の乱れや諸問題は、人々の意識(無知)から引き起こされている、ということに気づくべきでしょう。
例えば、環境破壊は自然に対しての「人々の意識によるいじめ」である、といえます。

私たちには、精神的物理的な環境において、未来への責任があります。
これからの時代は、より強さが求められ、強くあらねば、未来への責任を果たせないのではないか、と思われます。
そして、真の強さは ‘ 純粋性 ’ に支えられます。

ヒマラヤハウス® は、どのような環境においても ‘ 純粋性 ’ が必要であると考えます。
‘ 純粋な創造 ’ こそが、本来あるべき環境「公共性」を構築し、「真の調和力」を放射すると想像されるからです。

正しい秩序により統一されていない世界において、 ‘ 純粋性 ’ を貫くのは、容易なことではないでしょう。
共に ‘ 戦う意思と覚悟 ’ をもって、純粋に美しく自然の法則と共に在るよう、 ‘ 純粋な創造 ’ を成していきましょう。

※ 公共性についての記事「公共性と環境づくり-ヒマラヤハウス」を是非ご高覧ください。


追記( 2014.8.5 )

この原稿を書き終えた直後、「小中高校先生の若返り」という新聞記事が目に留まりました。
ヒマラヤハウスでは、この社会現象もまさに本サイト内で度々触れている「事なかれ主義」に深く関連付けが必要であろうとの見解より追記事項といたしました。

教員の平均年齢が小中高校で下がり始めたことが、文部科学省の公表した2013年度学校教員統計調査報告でわかりました。
1977年の調査開始以来、教員の高齢化が続いていましたが、初めて前回調査時を下回った理由は、1970年代前半の第2次ベビーブームへの対応で1980年前後に大量採用された教員が退職期に入ったこととされています。

学校現場にベテランの先生が居なくなり、若返りが進む中、若い先生の経験不足は未だしも、事なかれ主義を背景とした子供の教育環境は危惧(きぐ)すべき日常になっていると思われます。
改変された昔話や草食系の時代背景(環境)の中で育った世代は、少なからず事なかれ主義に覆われているからです。
ヒマラヤハウスでも子供のいるスタッフの多くが、学級担任が若い先生の場合の、事なかれ主義を前提とした諸問題の解決手腕には疑念を抱くと同時に、その対応より子供の将来に不安感を覚える、という苦い経験をしています。

※ ヒマラヤハウスに寄せられた体験談に基づいた記事「正直者は損をしている」を是非ご高覧ください。

参考までに、
暴力行為、いじめ等の児童生徒の行動が問題視される中、文部科学省は1982年より「児童生徒の問題行動等生徒指導上の諸問題に関する調査」を開始、その報告の中で「加害児童生徒」と「被害児童生徒」という文言を取り込みました。
児童生徒の加害行為が増加している現在、「加害児童生徒」と「被害児童生徒」という語句は、一般的に使用され認知されているはずですが、事なかれ主義が蔓延する教育現場(学校)ほど、その明確に相対する語句を使いたがらないように感じるのは私たちだけでしょうか。

さらに、加害者側ほど、加害者と被害者の立場を肌で察知するからか、「加害児童生徒」と指し示されることに嫌悪する傾向が、やはり感じられます。
残念なことに加害者側ほど、事なかれ主義での主張は強く無責任であるようです。
たとえ、子供であっても、善悪の区別をつけることは必然でしょう。

そして、将来強く美しい国家の構築、秩序ある環境公共性の創造を担う一員となるべきでしょう。

世界のために...

ヒマラヤハウスサイト画像